靖國神社を参拝して、西郷頼母の「蝸牛の歌」に出会う

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先日、秋晴れの午後、人生で初めて靖國神社を参拝しました。今回は、その参拝をきっかけに出会った、カタツムリにまつわる歴史をご紹介します。

都心のカタツムリ散策

靖國神社のすぐ近くにある皇居や北の丸公園周辺では、豊かな緑を背景に、現在でもカタツムリが生息していることが知られています。

もしかしたら、皇居から程近いこの境内にもカタツムリがいるのではないか🤔

そう考えた私は、靖國神社を初めて訪れました。

靖國神社

石垣や木陰を何気なく覗き込みながら歩いてみたのですが、結局、一匹も見つけることはできませんでした。

しかし、帰宅してから二つのことが気になりました。

一つは、靖國神社はなぜここに創建されたのかということ。もう一つは、見つからなかったカタツムリのことです。

この二つの、一見何の関係もないように思える出来事が、ゆっくりと進むカタツムリの軌跡のように、一本の線でつながったのです。

【参考】資料 皇居の生物相:陸産貝類、淡水貝類について

皇居の生物相 – Wikipedia

靖國神社の始まり

靖國神社の起源は、明治2年(1869年)6月29日に創建された「東京招魂社」にあります。

明治天皇の思し召しにより、国家のために命を捧げた人々の御霊を慰め、その事績を後世に伝えることを目的として建てられました。

明治天皇

明治7年、明治天皇が初めて親拝された際に詠まれた御製、

「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉垣」

にも、その創建の趣旨が示されています。

創建の背景には、幕末から明治へという大きな時代の転換があります。

約250年にわたり続いた江戸幕府の体制が、欧米諸国からの開国要求や国内の政治的対立の中で揺らぎ、大政奉還、王政復古を経て、天皇を中心とする新しい国づくりが始まりました。

そして、この変革の過程で起こったのが、戊辰戦争だったのです。

戊辰戦争とは

戊辰戦争は、慶応4年・明治元年(1868年)から翌年にかけて、新政府軍と旧幕府軍の間で繰り広げられた内戦です。

戊辰戦争は、国内最大の内戦として知られています

鳥羽・伏見の戦いに始まり、江戸城の無血開城、上野での彰義隊との戦い、東北地方での奥羽越列藩同盟との戦い、そして北海道の箱館戦争まで、約一年半にわたり日本各地が戦場となりました。

東京招魂社が創建された当初、そこに祀られたのは、この戊辰戦争における新政府軍側の戦没者でした。

同じ日本人同士が戦った内戦でありながら、旧幕府側、例えば会津藩などの戦没者は、当時「朝敵」とされた経緯もあり、創建当初の祭祀対象には含まれませんでした。

その後、祭祀の対象は明治維新以降の国事に殉じた人々へと広がり、今日に至っています。

このような歴史を知ると、同じ戦争で命を落とした人々であっても、その立場によって扱いが異なっていたことが分かります。

そして、同じ戊辰戦争の中で、会津藩にあって和議を唱えた人物がいました。

会津藩家老、西郷頼母(さいごう たのも)です。

和議を唱えた会津藩家老・西郷頼母

Saigō Tanomo.jpg
Photographer is unknown – 会津武家屋敷開門30年のあゆみ, パブリック・ドメイン, リンクによる

西郷頼母(さいごうたのも)は、1830年(天保元年)生まれ。幕末の会津藩で家老を務めた人物です。

特に知られているのが、藩主・松平容保が京都守護職への就任を命じられた際の逸話です。

当時の会津藩の財政や軍事力を考えれば、京都の治安維持という重責を担うことは、藩の存続を危うくしかねない。頼母はそう考え、就任に強く反対しました。

しかし、藩主の松平容保はその職を引き受け、頼母は一度家老職を解任されます。

戊辰戦争が始まると、頼母は家老に復帰し、白河口総督として新政府軍と戦いました。

しかし、白河口の戦いで敗れ、戦況が厳しくなる中で、頼母は会津藩に対して和議・恭順を主張するようになります。

これ以上戦いを続ければ、会津藩そのものが滅びかねない。会津は恭順し、和議を結ぶべきだと考えたのでしょう。

当時の会津藩内では、降伏は武士の恥であるとして、徹底抗戦を求める声が強くありました。

そのため、頼母の主張は受け入れられず、彼は藩内で孤立し、やがて会津を離れることになります。

会津戦争の悲劇

戊辰戦争の旧幕府軍

そして、会津戦争のさなか、悲劇が起こります。

1868年8月23日、新政府軍が若松城下に迫る中、頼母の妻・千重子をはじめ、母や子、親族ら一族21人が、自邸で自刃したのです。

敵に捕らえられることへの恐れや、当時の武家社会の価値観など、さまざまな事情が重なった結果だったと伝えられています。

これは会津の歴史の中でも、痛ましい出来事の一つとして今日まで語り継がれています。

頼母自身は長男とともに会津を離れ、その後は榎本武揚ら旧幕府軍と行動をともにし、箱館戦争にも参加しました。

明治維新後は各地で神職を務め、1903年(明治36年)にその生涯を閉じています。

勝つために戦った人、負けると分かっていても戦わざるを得なかった人、そして戦いを避けることで藩を守ろうとした人。

同じ会津という藩の中にも、これほど異なる生き方があったのです。

蝸牛の歌に託した心情

激動の時代を生き、家族を失い、藩論に反して和議を唱えた人物として、厳しい世評にもさらされたとされる頼母。

そんな頼母が詠んだと伝わる一首の歌があります。

うらやまし 角をかくしつ 又のへつ 心のままに 身をもかくしつ

この歌は西郷頼母の作として伝えられています。白河市には歌碑が建立されており、頼母が書いた掛け軸が残されていたことも紹介されています。

カタツムリは、危険を感じれば角を隠し、殻の中に身をすっぽりと隠すことができます。

自分の意思で、身を守ることができる。

その姿を、頼母は「うらやまし」と詠んだのです。

カタツムリになれなかった頼母

京都守護職への反対が容れられず、白河での敗戦、そして和議の主張も退けられ、家族を失う。

自分の意思だけではどうにもならない立場や責任、時代の大きな流れに翻弄された頼母にとって、自分の心のままに角を出したり隠したりできる小さな生き物は、どれほど羨ましく映ったことでしょうか。

人間は、カタツムリのように簡単に殻に閉じこもることはできません。

守らなければならない家があり、仕えなければならない主君がおり、時代から課せられた役割があります。

そのような時代の中で、頼母もまた、自分の意思と背負わされた立場との間で苦悩したのではないでしょうか。

一方、カタツムリは小さな殻を背負いながら、自分のペースで静かに生きています。

人間の社会とは異なる、そんな生き方に思いを巡らせてしまいます。

静かに生きるものが教えてくれること

初めての靖國神社参拝で、私はカタツムリを見つけられませんでした。

しかし、歴史を辿るうちに、図らずもカタツムリにまつわる一首の歌にたどり着きました。

境内で手を合わせたとき、私が思ったのは、特定の思想や立場への賛同ではありません。

「この近くの皇居にはカタツムリがいます。いつか、この神社でもカタツムリを見つけたいです」

私は、静かにそう願いました。

皇居では、国立科学博物館による継続的な生物相調査が行われており、都心とは思えないほど豊かな生物多様性が確認されています。

武蔵野の自然を今に残す皇居周辺には、さまざまなカタツムリが生息しています。

私は、いつか靖國神社でもカタツムリを見つけることができたらと思います。

そして、きっとそのカタツムリの殻の中には、かつてカタツムリになれなかった頼母の思いが、そっと詰まっている気がするのです。


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