
ことわざの「蝸牛角上の争い(かぎゅうかくじょうのあらそい)」は、「荘子」の「則陽」編に由来する慣用句で、小さな者同士の争いやつまらないことにこだわった争いを意味します。今回は、老荘思想のことわざを詳しく吟味し、思想の世界観を探求したいと思います🧐
「蝸牛角上の争い」
出典は、荘子(そうじ)という書物の則陽(そくよう)という編に出てくる寓話の言葉です。意味は、小さい争い。つまらぬことで争うこと。狭い世界での争い事にたとえています。荘子の寓話の趣旨は以下の内容です🐌

【こつむ日記:拙訳】
「戦国時代にある王様が、隣国を滅ぼそうと考えていました。すると、ある知恵のある人が王様に助言をします。『王様の国が、隣国を滅ぼそうと考えるのは、まるでカタツムリの角同士が戦うのを考えるようなものです。この宇宙の広大さに比べると、王様の国と隣国は、カタツムリの角同士のようなものです』すると、王様は愕然として隣国のことを滅ぼすのをやめました。』
ちなみに、後年中国の著名な詩人は、この寓話の影響を受けて詩を残しています。その詩の趣旨は以下の内容です🐌

【こつむ日記:拙訳】
酒についての詩:カタツムリの角のように争いを考えるのは、馬鹿げています。人生は火花のように短い。だから笑って過ごすべきです😊
おおよそ、「蝸牛角上の争い」とは以上のような内容です。要するに「悩むな。なるがまま、あるがまま、ありのままが一番だ🎉」というメッセージが込められていると私は考えています😌
老荘思想とは
中国の春秋戦国時代に生きた老子と荘子の思想を総称した思想文化です。儒教と並ぶ中国思想の重要な流派で、自然と共生し、個人の自由や無為自然を強調する思想です。無為自然とは、人間は自然の生き物と同じであるため、老荘思想である「道(タオ)」に従い、何も意図しないで自然のままに生きることを意味します。
なお「道(タオ)」とは、とても言葉に表すことができない抽象的な概念です。「道(タオ)」とは、万物を生み出し、運行させる根源的なエネルギーのようにも思えます。

また、老荘思想は言葉で表すことを批判している側面があります。そのため、「蝸牛角上の争い」は一般的には「つまらぬ争い」を指しているとされますが、老荘思想を前提にすると、この寓話の真意は簡単には分からないのではないかというのが、私の見解です😑
「胡蝶の夢」
「胡蝶の夢」という寓話は、老荘思想をよく表していると言われています。荘子が夢の中で蝶になり、花の上で遊んでいたが、目覚めると自分が夢で蝶になったのか、蝶が自分になっていたのかわからなかったという内容です。そして、この寓話は、人間の認識の限界や、世界の不確実性を暗示しているようにも思われます。

ちょっと想像してみてください。例えば、あなたは夢を見ているときに「これは夢だ」と深く自覚することはありますか?おそらく、ほとんどの人が自覚していないと思います。また一方で、今あなたは現実に起きています。しかし「これは現実だ」と深く自覚していますか?もし、双方とも自覚していないということは、「夢」も「現実」も実は曖昧なものなのだとするのが、老荘思想の根幹にあります。

つまり老荘思想とは、自分と物との区別のつかない物我一体の境地、または現実と夢とが区別できない領域で、二項対立の中間に位置するような、モヤモヤした思想なのです😎
カタツムリの角の争いとは、現実と幻想の争いか?
「蝸牛角上の争い」とは、一般的に「狭い世界での争い」を意味していると解されます。しかし、人は争う時に、その真意では、何と何が争っているのでしょうか。自国と他国、自分と他人が争っているというよりは、人間同士の現実と幻想が争っているという側面があるのではないでしょうか。
例えば、「現実」とは、目に見える物質的な世界であり、「幻想」とは、人間の欲望や妄想が生み出す世界であり、その双方が絶えず争っている状況があるのではないでしょうか🤔

「蝸牛角上の争い」には、現実と幻想から距離を置き、あるがままの「無為自然」への回帰と、ありのままの状態に満足すべきという「足るを知る」というメッセージが込められているのではないかと、私は考えています😊

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