カタツムリは、様々な芸術家の作品のモチーフとして使用される事があります。今回は、江戸時代に活躍した、奇想の絵師「長沢芦雪(ながさわ ろせつ)」のカタツムリの作品をご紹介します🐌
長沢芦雪とは
長沢芦雪(ながさわ ろせつ)は、江戸時代に京都で活躍した絵師で、円山応挙(まるやま おうきょ)の高弟です。奇抜で機知に富んだ画風を展開し、「奇想の絵師」と呼ばれました。そして和歌山県の南紀に滞在したときに多くの障壁画を残しています。
長沢芦雪 蝸牛図
長沢芦雪の作風は、一般的に次の3つの特徴があると言われています。
- 大胆な構図と斬新なクローズアップ
- 奇抜な着想
- 自然に触発された、自由奔放な作品
今回ご紹介の、カタツムリ図にも、長沢芦雪の作品の特徴を裏付けるように、カタツムリの歩みの跡を「ゆらゆら」とした線を描くという奇抜な着想が見受けられます。
この作品では、長沢芦雪は「土絵」と呼ばれる天然の土から作られた絵の具で2匹のカタツムリを丁寧に描いています。砕いた白い貝殻を混ぜた色を積み重ねて、銀色のメタリック顔料がカタツムリの軌跡を示しており、そして土壁に沿って光っています。
そして、右上の軌跡には、なぜかカタツムリがいません。
この「カタツムリが描かれていない」という点については、作品を収蔵している、クリーブランド美術館も「推測することになる」と述べています😊
Notably, one trail has no snail, leaving the viewer to guess why.(特筆すべきは、ある軌跡にはカタツムリがいないことで、見る者はその理由を推測することになる。)
The Cleveland Museum of Art
そして今回は、この「カタツムリが描かれいない理由」について、カタツムリのように、ゆらゆら回り道をしながら考察したいと思います🐌
18世紀の芸術:ヨーロッパと江戸時代の特徴
長沢 芦雪が生まれたのは、宝暦4年(1754年) 、亡くなったのは寛政11年(1799年7月10日)ですから、活躍した年代は18世紀という事になります。
18世紀といえば、ヨーロッパではバロック絵画が円熟期を迎えた時代です。バロック絵画は、劇的な描写、豊かで深い色彩、強い明暗法などの技法を取り入れた作風が多く、精密な写実として「人物」を描く事が多いのが特徴です。
この「人物」が美術の対象となっている理由は、ヨーロッパではキリスト教の影響により、イエス・キリストの人物像を描く事が多かったからという説があります。
一方で、長沢芦雪が活躍した江戸時代の絵師は、同時代のヨーロッパの芸術と同様に、豊かで深い色彩、強い明暗法などの写実的な技法を取り入れていますが、描く対象は「自然の動物」が多いという特徴があります。
「自然の動物」が多く描かれている理由については、大乗仏教の「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という、「生きているものは、全て仏性」という思想があり、日本のお寺などで「自然の動物」が描かれた事が理由の一つと考えられています。
一切衆生悉有仏性
「一切衆生悉有仏性」という言葉は、大乗仏教の教えの中で重要な概念の一つで、すべての生き物には仏性が備わっているという考えを表しています。仏性とは、潜在的な覚醒の可能性や究極的な覚りの本質を指します。つまり、どんなに苦しんでいる生き物であっても、その内には仏になる可能性があるということです。
このような、大乗仏教の思想は、日本における美術作品にも影響を与えており、国内の仏教寺院の襖や掛け軸などの題材に虎や鳥などの自然の動物が多く描かれている理由の一つとも考えられています。
なお、近代の大乗仏教においては、衆生つまり人間以外の山川草木や動物などすべてにおいて仏性があるという解釈から「一切悉有仏性」とも言われるようになりました。
つまり、日本のお寺に描かれている、山や川、動物は「仏性」を描く事により、大乗仏教の教えを伝えているという側面もあるのです😊
大乗仏教の教えとは
大乗仏教は、仏教の一派で、お釈迦さまの教えをさらに発展させたものです。その中心的な教えは、「菩薩道」や「大悲心」などがあります。大乗仏教では、一般的に個人の悟りだけでなく、他者の救済や世界の平和を目指します。
なお、菩薩道とは、自分だけでなく他の人々も救済することを目指し、慈悲と智慧を備えた修行を行います。菩薩道は、自分の利益よりも他者の利益を優先するという、高い精神的な境地を求める修行です🙏
また、大悲心とは、一切の有情(生きとし生けるもの)の苦しみを不忍に思い、救済することを願う心です。自らの生業において勤勉に働くことや、他者のために尽くすことが、人格の完成につながる修行であると考えられています😊
大乗仏教の宗派
大乗仏教はマハーヤーナ仏教や北伝仏教とも呼ばれ、中国、日本、韓国、ベトナム、チベット、モンゴルなどで広く信仰されています。代表的な宗派には、天台宗、真言宗、浄土宗、禅宗などがあります。
禅宗は、中国に起源を持ち、後に日本や他の東アジア諸国にも広まった仏教の宗派です。禅宗は、瞑想(坐禅)を通じて直接的な悟りを追求することに重点を置いています。その核心的な教えは、直観的な体験によって真理を理解することであり、言葉や概念に頼らずに直接的な体験を通じて悟りを開くことを目指します。
また禅宗では、禅の修行法や禅の問答(公案)、禅の詩文などが伝統的な教えとして重要視されています。代表的な禅の宗派には、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗があります。
臨済宗について
長沢芦雪が多くの作品を残した、和歌山県の紀州串本の無量寺は臨済宗のお寺です🙏
臨済宗は、中国の禅宗の一派で、坐禅によって悟りを得ることを目指す仏教の宗派です。日本には鎌倉時代に栄西が伝えて広めました。その後、武家社会で支持され、茶道や水墨画などの文化に影響を与えました。
また、臨済宗では公案(こうあん)という、禅宗における禅問答が取り入れられました。
代表的な公案には、「犬に仏性はあるか?」や「片手の音」などがあります。
長沢芦雪と禅宗
長沢芦雪は、29歳の頃、天明2年(1782年)版「平安人物誌」画家部に名を載せ、絵師として名を成し始めました。そしてこの頃、多くの禅僧と交流があったとされています。そして、芦雪という号は、「芦花両岸の雪、煙水一江の秋」という芦も雪も白一色という意味合いである禅語からとったものと考えられています。
紀州串本無量寺について
1786年(天明6年)、応挙と古く親交のあった臨在宗無量寺の愚海和尚は、京都の応挙のもとを訪ねます。
無量寺は、もともと和歌山県串本町の袋という地区にありましたが、宝永4年(1707年)10月の大津波のために一度流失しています。その後、中興の祖と呼ばれる愚海和尚が、大津波より79年後の天明6年(1786年)に本堂を再建しました。
この再建にあたり、愚海和尚は応挙が若い頃「貴方が寺を建てる時は、私(応挙)が絵を描いてあげましょう」と言っていたのを思い出して、無量寺再建にあたり、絵を描いてくれるような頼みに来たのです。
応挙は祝いに『波上群仙図』や『山水図』等、障壁画12面を描きましたが、多忙な上に年齢的な事もあり、お寺の全ての部屋に絵を描く事は難しい事でした。
そのため、弟子の芦雪に障壁画を任せ、京都から南紀に向かわせます。それは芦雪が33歳の頃で、他の弟子を差し置いての異例の抜擢でもありました。
そして南紀に下った芦雪は、自らも本堂のために襖絵を描き数々の力作を残します。師の応挙や寒い京都から遠く離れ、温暖な串本で、芦雪は一気にその才能を開花させます。
芦雪の、南紀滞在は、一年にも満たない、数ヶ月だったと伝えられていますが、この間に270点以上の作品を残したと伝えられています。
なお、芦雪の描き方は、かなり独特で、立ったまま襖に絵を描いたり、酒を飲んでいたかと思うと、おもむろに筆をとり一気に描いて見せたりしていたようです😊
虎図の構図について
長沢芦雪の作品は、とても「奇妙な構図」が多いという特徴があります。長沢芦雪の作品として有名な紀州串本無量寺に所蔵されている「虎図」は、大きな虎が「ぐわっと」こちらに勢い良く向かって来るような印象があります。そして、全体的な絵のバランスとしては、顔と前足がとても大きく描かれています。また、虎の右奥には、岩場と水辺のようなものが描かれており、どうやら虎は岩場のある水辺にいるようです。
虎図は紀州串本無量寺の室中之間の襖に、龍図と向かい合わせで描かれています。そのため、双方合わせて「龍虎図」と呼ばれています。
また余談ですが、この時代は、まだ日本には虎という生き物は入って来ていないため、当時の絵師達は、虎を描く場合は「猫」を参考に描く事が多かったと伝えられています。
魚の目線
「龍虎図」がある隣の上間二之間には、上薔薇図という襖四面に描かれた作品があります。この作品はゴツゴツとした形の岩と、猫や鶏が写実的に描かれています。
この作品では猫達は、水辺の岩場で遊んでいます。そして、水辺にいる一匹の猫に目を向けると、猫の前には、小さな魚が描かれているのがわかります。
その猫は、まさに魚に飛びかかろうとしています。
この事から、「龍虎図」に描かれた虎は、魚の目線で描かれた猫なのではないかという見方もあるようです。
長沢芦雪と魚
長沢芦雪の作品には、魚の文字の落款印が使用されており、この魚の落款印を使用しているのには、あるエピソードがあります。
芦雪が京都の応挙の元で修行していた、ある冬の寒い朝に、川辺の氷がはり、その中で魚が身動きが取れないでいるのを見かけた事があるそうです。
そして、修行の帰りに、また川辺に目を向けると、氷は溶けていて、魚は自由に泳いでいました🐟
この出来事に感銘を受けた芦雪は、応挙に今朝の出来事について話をします。
すると応挙は、芦雪に「修行とは氷のようなもので、いずれ氷は溶けて、その魚のように自由を得るのだ」と説いたそうです😄
それ以来、芦雪は氷を模した枠の中に、閉じ込められた魚の落款印を使用したとの事です。
なお、落款印はその後、原因は分かりませんが、右上が欠けており、印の形で、芦雪の作品の時代が分かるとされています。
また、和歌山県串本の和菓子屋では、芦雪の落款印を模した「芦雪もなか」が販売されています!ご興味がある方は、ぜひお試しください😋
【お店情報】和歌山県 うすかわ饅頭儀平「芦雪もなか」
描かれなかったカタツムリと片手の音
クリーブランド所蔵のカタツムリの図には、2匹のカタツムリ描かれていて、軌跡が3本あります。そこで、もう1匹のカタツムリは、「なぜ描かれていないのか?」と考えてしまいます🤔
「もしかしたら、落ちてしまったのか?」や「これには、深い意味があるのでは?」と考える人もいるかも知れません。私もしばらくは、カタツムリがいない理由を考えましたが、カタツムリが描かれていない事は、実は「意味はない」のだと思っています。
なお、仏教では「隻手音声(せきしゅおんじょう)」という問答があります。
これは、両手を打つと音が出ますが、片手ではどんな音がするのかという事を問うものです。誰でも、片手では、音はしない事は分かっていると思います🖐️つまり、片手の音とは「意味はない」という事を表しているのです。
今回、紹介している、芦雪のカタツムリも同じで、「2本の軌跡には、2匹のカタツムリがいて、ある1本の軌跡には、カタツムリはいない」ただ、それだけなのです。
そして、そこには「意味はない」のです。
ただ、カタツムリが描いてある軌跡と、カタツムリが描いてない軌跡があると、人は「何か意味があるのでは?」と思ってしまいます。
しかし「カタツムリが描いてない」理由など、考えても分かるはずもありません。そして「考えても分かるはずもない事」は、「意味のない事」なのです。
つまり「片手の音」と同じ事なのだと私は解釈しています😃
【参考文献】
長沢芦雪の人柄
長沢芦雪は、画風と同じく性格は、酒好きで奔放、快活である一方、傲慢な面があったと伝えられています。そのためか、同時期に同じ京都で活躍した高名な絵師と較べると、彼の人となりを知る資料はとても少ないそうです。
そのため長沢芦雪がどのような人だったのかは、実は多くが謎に包まれています。
ちなみに、芦雪には子供が何人かいましたが、不幸にも子供達は長くは生きられなかったようです。なお、二人の子供は、3歳になる前に2歳で亡くなってしまったそうです🥺
長沢芦雪の作品は、和歌山県の無量寺や各地の美術館、インターネットのアーカイブなどで観る事が出来ます。是非、長沢芦雪の魅力的な世界観を堪能してくださいね🙏
【参考資料①】錦江山無量寺
【参考資料②】Cleveland Museum of Art
【参考資料③】九州国立博物館
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